天才軍師・竹中半兵衛というと、この稲葉山城乗っ取りのエピソードが好きなんですが、今回動画を作るにあたって少し調べてみると、いろいろ発見がありました。
美濃国に長く続いた権力闘争
1564年、美濃国は乱れていました。もとをたどると守護であった土岐氏が兄弟で相続争いをするのに乗じて、斎藤道三が実力で国守となったことに端を発します。
以来、美濃の家臣団は親織田・反織田という外交上の路線対立もあいまって、道三に与する革新派と土岐氏譜代の守旧派に二分されることとなります。
しかし、斎藤道三は戦争偏重の姿勢が守旧派の反感を買い、またもや息子の義龍を擁する国守差替が起こることになります。
斎藤義龍は織田家の攻勢をうまく防いだものの、1562年に35歳の若さで急死すると、当主の座は14歳の龍興に移ります。
幼君龍興と奸臣飛騨守
政治経験のない斎藤龍興は、重臣として斎藤飛騨守秀成を用いたが、これが家臣団の分裂に拍車をかけてしまいます。
斎藤飛騨守は後世「奸臣」と言われるが、公平にみてもかなり好戦的な人物だったようで、あるいはそのために若い龍興には頼もしく見えたのかもしれません。
一方、竹中半兵衛重治は、この飛騨守とそりが合いませんでした。
稲葉山城乗っ取り
ゲリラ戦を得意とする半兵衛は数々の戦功をあげ堅守しましたが、飛騨守は半兵衛の口数の少なくおとなしい性格や華奢な容姿をさんざん馬鹿にし、挙句の果てに謀反の疑いをかけたのです。主君である龍興に糺された半兵衛は、忠誠の証として弟・久作重矩のを人質として稲葉山城に差し出します。
しかし1564年2月、半兵衛はわざわざ飛騨守が稲葉山城の警護を任されている時期を狙って、わずかな従者を伴って弟の病気見舞いと称して稲葉山城に赴きます。
油断する城内警護の隙をついて一気に飛騨守を殺害し、難攻不落といわれた稲葉山城を乗っ取ることに成功します。
城返しの真相は?
しかし、半兵衛はこの半年後に龍興にあっさり城を返し、隠棲してしまいます。この返却の理由としては一説には、半兵衛が盟主と頼んだ義父・安藤守就には賛同者が少なく、クーデターがとん挫したためともいわれています。
この稲葉山城乗っ取りが、安藤守就の主導するクーデターだったのか、半兵衛による飛騨守への意趣返しだったのか、それとも主君・龍興を諌めるための義挙だったのか、今となってはわかりません。
後年、織田に通じた元家臣らが、自分たちの行為を正当化するために龍興の記録を捏造した可能性もあるからです。
軍記物語にみえるこのような逸話は、民衆たちの希望が生み出し語り継いできたもので、それも一面の真実を表しているのかもしれません。
歴史は万華鏡
改めて調べてみると、歴史っていろんな見方ができるので、万華鏡みたいですね。基本的に負けた側の歴史資料は失われてしまうので、軍師半兵衛と等身大の人間半兵衛をそれぞれ理解することが大切なのかな、と思いました。
人それぞれの半兵衛像があるんでしょうね。