かくれキリシタンと秘儀 〜愛欲と信仰

信仰と愛欲って正反対なようで、その境界は実はけっこう曖昧です。

レキシの楽曲「かくれキリシタンゴ」を聴いて考えさせられました。



信仰というと聖なるイメージですが、その秘儀には血と性のモチーフがある教義が多いです。

例えばアダムとイブの知恵の実の話や、美佐でのぶどう酒とパンなど、禁断のものを共有する儀式で、信徒集団は結びつきます。

新興宗教だとこの要素はもっと不健全な形になり、ラスプーチンやオウム真理教など教祖との性的な結びつきを儀式として正当化する例も多いです。



バテレン追放令以後の日本におけるキリスト教信仰は、ちょうどローマ帝国時代の原始キリスト教のように非公認のもので、地下組織によって布教活動がされてきました。

非公認のものの布教にはジレンマが伴います。

新たな仲間を増やしたい一方、裏切り者やスパイが入り込んでは困る、というジレンマです。

したがって、簡単に裏切られないように、秘密の共有が必要になってきます。



強固な集団を作るために、恐怖や承認、欲望を駆使した集団心理を操る技法が発達することになります。

脳の領域でも、愛欲と恐怖の領域は近いそうです。


現代社会でも、家族に反対差れるような商品を売ろうとするビジネスモデルでは、強固なコミュニティを作るために、このような手法が繰り返し用いられているように思います。