"stairs"と"steps"
「建物の高さのことなる二平面をつなぐもの」を"stairs"といい、
「一歩ごとに続く一連の平面」を"steps"という。
漢字に戻ると「階」とは、「建物の中の層」(floor)であり、
「段」とは「高低差のある区切り」のこと。
いずれにしても、2つの異なった水準を、歩幅に合わせて区切ったものを「階段」というわけである。
さて、人生に山や谷があるとすれば、
そこには「階段」と「坂」があることに気づく。
つまり、「区切り」があるか、それともないのか。
人生の坂を上っているのか、階段を上っているのか。
金毘羅山
階段って好きですか?
私にとって階段は、「疲れるししんどい」そんなイメージ。
でも、階段の本質を「区切り」だと知ると、ちょっと見方が変わる。
階段は自然には存在しない。
誰かが「区切って」上りやすくしたものからだ。
これまたどうでもいい話だが、数年前に会社の日帰り旅行で金毘羅山に上ったことがある。
バス移動の車内でしこたまお酒を飲んだ体に、山道の階段はだいぶ堪えた。
わざわざ休みの日に社内旅行なんて疲れるだけ、と思っていた。
思っていたけど、やっぱり山頂から見える景色は清々しかった。
下山するときは膝も笑った。
バスに乗せられて山道を歩かさせられる、そう思うとそれは苦行でしかないのだが、この苦行にはその準備をしてくれた人たちがいるわけだ。
当たり前だが、自然に階段はできない。
当たり前だが、自然に段取りはできない。
人に区切ってもらって上れている、そんな「しんどさ」だってある。
こういうのは、実際にやってみなくちゃわからない。
音階
お次は、少し音楽の話を。音楽の階段といえば、音階。ドレミファソラシド。
もともと、自然に存在した音程は、なんだろう。
多分、「低いド」と「高いド」のような「オクターブ」だったり、「ド」と「ソ」の五度音程なのかもしれない。
もし、ご興味のある方は調べてみてほしい。
どうでもいいけど、百人一首を読み上げるときの一般的な音程差は、五度。
日本語はアクセントを音の高低で表現しているようで、「おと(音)」は五度上行しているし、「はと(鳩)」は五度下行している。
だから、「おと」という発音と、パソコンにUSBを入れるときの効果音は似ている。
こういう自然な音程が生まれるのは、音波が周期的なものだからだ。
周期的なものは、強め合ったり、弱め合ったりする。
どうせなら、強め合った方がエネルギーの消費は少ない。
音程を並べて音階を考えた一人に、古代ギリシャのピタゴラスがいる。
それをピタゴラス音階(Pythagorean scale)という。
直角三角形の「ピタゴラスの定理」のあのピタゴラスである。
ピタゴラスイッチのピタゴラスである。たぶん。
ここでの「音階」は"scale"、つまり「尺度」で、ピタゴラスは「ハモる音程」をひたすら計算して測っていった。
しかし、この尺度には問題があった。
詳しくは説明しないが、基準になる音から「ハモる」音同士が「ハモらなかった」からだ。
いくつか音階・音律は発明されたが結局は一緒で、今でもその時々で「ハモる」音程というのは周りを耳で合わせる必要がある。
ことほどハーモニーとは得難い。
「正しい音階」が静的には存在せず、動的に決まるなんて、ほんとに面白い。
誤解を承知で言えば、その時やってみなくちゃわからない。
プラトー
階段というテーマでもう一つ書いておきたいことがある。それは「プラトー(plateau)」について。
プラトーというのは、高原のこと。
山道を登っていると、少し平らな場所が開けていて、花が群生していたり、見晴らしがよかったり、そんな場所がある。
休憩するのにもってこいである。
しかし、人生の山道で気持ちよく休憩できる人は決して多くはない。
「プラトー」という言葉はリハビリテーションの分野でよく言われる。
例えば、脳梗塞の後遺症として麻痺が残るときに、リハビリで身体機能の回復をはかる。
ただ、失われた脳機能を「まったく同じ状態」に戻すのは難しく、機能回復の過程にある「停滞状態」のことを、「プラトー」という。
見晴らしがよいなんて、とんでもない。
この「プラトー」が辛いのは、「いつまで停滞するのかわからない」ところである。
がんばれば良くなるかもしれないし、がんばっても報われないのかもしれない。
むしろ、がんばっているからこそ「停滞」、つまり「維持」しているのかもしれないのだ。
学習に関する心理学では、「プラトー効果(plateau effect)」とは、「学習の量に比例した技能の習得が見られない状態」のことをいう。
いつからか人間は、「正比例の関係」に支配されている。
「2倍がんばれば、2倍成果があがる」という考え方だ。
単純な坂道がどこまでも続いていく「右肩上がり」のイメージ。
ところがどっこい、そんなイメージはあまり役に立たない。
人生には山や谷がある方が普通だ。
人間の筋肉は同じ負荷では鍛えられなくなるし、人間の感覚は同じ刺激には慣れてしまう。
「順応」の仕組みがあるからだ。
楽器を弾いていると、こういう「停滞」はよくある。
「楽器演奏」は身体表現のひとつで、練習は体の筋肉・神経を自在に操るためのトレーニングだ。
まるでバレリーナのように、あるいは野球選手のように、しなやかな筋肉と、指先までの繊細な神経が要求される。
だから、ほかのトレーニング同様にプラトーがある。
筋肉が作られるのには時間がかかるし、神経がつながるのにも時間がかかった。
人の2倍練習するからって、必ずしも2倍上達するものでもない。
するばするほどドツボにはまる時期だってある。
だから、しょっちゅう頭によぎるのが「自分に才能なんてない」という思い。
あの人はなんであんなに上手いんだろう…とか。
もっと小さいころからやっておけばよかった…とか。
ほんと毎日どうでもいいことに悩んでいた。
実は、ここから抜け出したヒントは、音楽の外で見つけた。
確か、俵万智さんのエッセイで読んだのだが、「和歌はいつからでも始められる、だって言葉はみな子どものころから使っているから」ということ。
それからすぐってわけではないけれど、自分にとっての楽器演奏も変わった。
いや、楽器演奏から音楽表現になった。
上手に演奏することから、感じたままに表現することになった。
感じたことを考えたり、悩んだりはずっと子どものころからしているから。
それをほめてくれる人もいれば、バカにする人もいるだろうけれど、それもきりがない。
自分の人生の限られた時間の中でできる限りの「音楽」をするしかない。
音楽は生活の一部と言い切れる。
「プラトー」は、「さらなる飛躍の準備期間(土台の形成)」としても位置づけられる。
いわば、バネが力を蓄えている時期だ。
何事においても、壁にぶつかることがある。
「スランプ」なんてない方がおかしい。
これを「ちょっとした停滞」と思えるか、自らの「成長限界」と捉えるのか、大きな分かれ道。
でもそんなの、誰にもわからない。
やっぱり、やってみなくちゃわからないんだよね。
あとがき
1週間ってあっという間で、結局今回も締め切りに間に合いませんでした。
ま、階段を後ろから追いかけるのも、悪くないよね。
同じテーマで書かれたほかの作品もこちらからどうぞ…「#3000文字階段」。
きっとすてきな文章との出会いがあるはず。
誰でも大歓迎!
無理はしない
3000文字チャレンジ!第51弾!【階段】— 3000文字チャレンジ公式アカウント (@challenge_3000) November 21, 2019
どうも!
3000文字チャレンジ。
はい、51回目!
1周年まであと1回!
今回のテーマは『階段』です!
以下のルール見てね↓↓↓↓↓