広告収入モデルって、タコが自分の足食ってるようなもの?

こんにちは。広告収入モデルの社会における意味についてゆっくり考えてみました。



きっかけは、知識や情報の共有・協調を研究されている数学者、新井紀子先生(@noricoco)の以下のツイートです。


ふつうの歴史観をもっていたら、もっとも世界中の最も高い能力の数学者が、Googleとfacebookにかき集められてよい理由がおもいつかない。
だって、広告収入モデルなんて、タコが自分の足食ってるようなものだもの。しかもXのプロジェクトは全部実現可能性きわめて低いし。
「インターネット企業の広告収入モデルがタコが自分の足を食べているようなもの」という表現がささったので、考えてみたいとおもいます。

タコが自分の足を食べているようなもの

「タコが自分の足を食べているようなもの」という表現は、一般的に「自分の食欲のために自分自身の本体を消費する」ことを意味します。

つまり、「本末転倒」です。

広告収入モデルの3つの主体

そこで考えさせられるのが広告収入モデルにおける「本幹」と「末節」です。
広告収入モデルの本末とは何なのでしょう。



まず、広告収入モデルの3つの主体のどれを主語にするか、という問題があります。

広告主(生産者)で考えると、本幹は付加価値創造(生産)、末節は販売促進(営業)ということになると思います。

はじめ、ビジネスのこの生産者サイドで考えていたので、「タコが自分の足を食べているようなもの」という表現がよくわかりませんでした。

しかし、消費者の観点で考えると、本幹は自分の個人情報(購買嗜好)、末節はコンテンツ情報の享受です

コンテンツを見るために自分のビッグデータを売る、という点は確かに「タコが自分の足を食べているようなもの」という側面があります。

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また、広告事業者から考えると、本末転倒とは以下のようになります。
広告事業者が過度に生産者から報酬を得ると、生産者の収益が圧迫されて産業全体が縮小してしまう、という側面です。

確かに広告事業は、広告したいという生産者がいないとビジネスが成り立ちませんので、そのエコシステムにはバランスが必要になってきます。

あるいは、広告収入モデルはサービスに広告を載せて提供しなければならないので、サービスそのものは最高の状態にできない、というジレンマがあります。

たとえば、「もっとも人間の求める答えに合致した検索結果」を追求しようとしても、そこに「広告」を混ぜなければならないために、最良の検索エンジンにはならないということです。

「情報の信頼性」をコンテンツの価値の本質と考えると、「広告収入」という末節が本質を食ってしまっているわけです。

広告は虚業か?

広告サービスは一見、虚業のような印象があるように思います。

例えば、「子ども騙し」にも思える動画がYouTubeで繰り返し再生されて、投稿者とプラットフォームである YouTube に広告収入が入る、という現象にどんな意味があるのだろうかと考えることはあります。

そして、基本的にその広告費は商品価格に上乗せされる以上、動画というエンターテイメントの費用は、結局消費者が負担することになります。

広告は市場のインフラ

ただしこのような広告サービスが、何も付加価値を生んでいないかと言うとそんなことはないと思います。

それは、商品情報を広く伝達するという価値です。

経済学でいうところの「自由市場」の前提の一つ、その一つに情報がいきわたっているという前提があります。

当たり前のことですが、知らない商品は買えないのです。

消費者もたくさんの商品を知るからこそ、比較し安くて良い商品を選ぶことができます。

このような商品情報を収集するには、能動的な場合と受動的な場合あります。
Google などの検索サービスだとこの境界が曖昧なのですが、広告は受動的な情報収集を担ってるといえます。

もし広告がなければどうなるのでしょう。

広告が存在しないと、大きく考えると商品の流通が減ることで、意欲的な商品は日の目を見ることがなくなるかもしれません。

結果として、ものづくりやサービスはつまらなくなるかもしれません。

そう考えると広告業は社会のインフラとして機能してると言えます。
このようなインフラには他には交通・流通・金融などがあります。

どれも一見非効率に見えますが、経済資源の効率的な循環に役立っています。

経済エコシステムのデザイン

広告収入モデルのプラットフォームを作っていくということは 決して簡単なことではありません。
それは経済のエコシステムをデザインしていくことだからです。

広告収入モデルは、ユーザーも広告主もそれぞれ惹きつける環境を用意することが主な仕事です。
一般にユーザーと広告主の利益は相反するので、バランスと工夫が必要です。

そう考えると、実際に数学者がこのようなリソースの効率的な循環を研究対象とするのは自然な流れかもしれません。

数学者の多様な仕事

ちなみに歴史上の数学者の仕事を遡ってみると多様です。

ピタゴラスは数を信仰する教団を作りました。離散数を信じる信仰は、現代のデジタル信仰に通じるのかもしれません。

数列で有名なフィボナッチは、ローマ数字の代わりにアラビア数字をヨーロッパにもたらしたことに業績があります。

これはイタリア出身の貿易商だった父親の影響もあるのでしょうが、簿記や経理という経済インフラの共通言語として利用されました。

ガロアは決闘で20代で死にましたし、天才中の天才であるガウスは分野が広すぎて、数学だけでなく物理・天文に業績を残しています。

天才はほっといてでも何かを成し遂げてしまうような気がします。
もちろん最高の数学者があまり一ヵ所に集まりすぎるのは不健全かもしれませんが、数学的な天才が経済的にも評価されることは決して間違ったことでもないように思います。

オープンソースとクローズドソース

数学者の「研究」について考えたときに、もう一つ成果の公開という観点があります。

私の好きな言葉に「巨人の肩の上に立つ」という箴言があります。

それこそ論文検索サービスのGoogle Scholarのトップにも書かれているのですが、学術研究では、先人の知見を利用する以上、自分の成果を広く提供するという文化があります。

これは、ソフトウェアの世界でのプロプラエタリとオープンソースとの歴史に通じます。
数学的天才が企業に囲い込まれてしまう一番の問題は、研究内容が公開されないということかもしれません。

天才たちがさっさと稼いでオープンな場に戻ってこられるとよいですね。

新井先生は数学者として第一線で活躍されているからこそ、また異なる見方をされると思うのでとても興味深いです。

ちなみに「知能とは何か」という問いについて、新井先生の研究は面白いです。ぜひ手に取ってみてください。