なんとも心に染み入る、甘美で哀愁のあるメロディです。
ドヴォルザークのスラブ舞曲集第2集第2番(Op.72-2)のうち、第1部をアレンジしました。
スラブ舞曲集はドヴォルザークにとって「出世作」といえるのですが、成功に伴うプレッシャーというものもありました。
1878年に出版されたスラブ舞曲は大ヒットし、ドヴォルザークは人気作曲家の一員になりました。
出版社はすぐに続編の作曲を依頼しましたが、彼は一度断っています。
それは第1集の6曲で全て出し切った自負があったからです。
民族舞曲集のブームで、いくら「売れる」と言われても、簡単に依頼に応じることはできなかったのです。
いっぽうでドヴォルザークには作りたい音楽がありました。
交響曲や協奏曲、ピアノ三重奏といった「大作」です。
この時期、ドヴォルザークはじっくりと時間をかけてピアノ三重奏曲ヘ短調やヴァイオリン協奏曲、交響曲第6番、第7番などを作曲しています。
しかし、これらの大作は興行的には家族を養っていくことができず、徐々に彼はふさぎ込んでいくことになります。
そんなドヴォルザークは汽車が好きで、妻の勧めもあり、散歩に出ては汽車を眺めにいったそうです。
ついにスラブ舞曲集第2集を作曲したのは1886年6月。この時、ドヴォルザークは45歳、第1集からすでに8年が経過していました。
実際の作曲はスムーズで、わずか一カ月あまりのうちに4手ピアノによる作品8曲を完成させています。
第2集は、ドヴォルザークの地元であるチェコだけでなく、ほかのスラブ地域のさまざまな形式を取り入れ、パワーアップしています。
また、どこかメランコリックな作品も多いです。
このとき 彼は求められる音楽の中に、作りたい音楽をこめることができるようになったんだと思います。
ドヴォルザークの生家は肉屋で、音楽的にはエリート街道を進んできたわけではありません。
むしろ、家族の反対や経済的にも余裕のない中、苦学して音楽を身に付けました。
そんな彼には、「村の楽師」ではなく芸術家として、小品ではなく大作で勝負したい思いがあったんだと思います。
その後も彼はたゆまぬ努力を重ね、最終的にはあの有名な交響曲第9番「新世界」に到達することになりますが、それは1893年、52歳のことになります。
ここに、彼の作りたい音楽は、求められる音楽になったんだと思います。