心配する親心とのわたしの付き合い方【3000文字成長】

皆さんは親に心配されたり、反対されたことはありませんか?

きっと、ありますよね。

私も最近、あったんですよ。

「父親」に的外れなアドバイスを押し付けられるイベントが。

ふつうの他人なら流せるけど、父親にはイライラしてしまう。

これは親への甘えもあるんでしょうね。



そこで、3000文字チャレンジのお題を探してみると…

おっ、ありました。

#3000文字成長」。

よし、これでいってみよう。



大きな人生の転機でも、小さいことでも、親は心配するものです。

例えば、進学とか就職とか結婚とか。

成長するにしたがって人生にはいろいろな「転機」がつきものですが、特に子どもが決まった「幸せのレール」から外れる選択をしようとすると、多くの親は心中穏やかでなくなるようです。

これは「理解ある親」を自任していても、陥りやすい自然な心理だと思います。

「そんなことをするとうまくいかない」と否定されることもあるだろうし、「もっと現実的に考えなさい」とか「それでは甘い」みたいな言葉はよく聞きますよね。

しかも、たちの悪いことに実際に親の言うことは正しかったりします。

少なくとも「統計的に正しい」「オッズのいい選択」。

親から見ると危なっかしい(決めつけ)

さて、言われた側の立場になると、そういうネガティブな可能性を全く考えていなかったかって言うと、そうでもないんですよね。

自分の選択である以上、うまくいくケース・うまくいかないケースを両方考えた上で選択します。

しかし、他人である親から見るとそうは思えないみたいなんですよね。

つまり、なんとなく「子どもはバラ色の未来しか見えていないんじゃないか」という決めつけがあって、だから「否定(あるいは注意喚起)」するんですね。

親からの「その選択にはこういう危険性があるよ」という言葉を受け止めるって難しいですよね。

バッターボックスに立つ選手に、「必ず打てるとは限らないよ」ってわざわざ言いますか?

はっきり言って、成功しないイメージを植え付けようとする「呪い」に聞こえてくるわけです。

しかも、「その選択はするな」という命令かというと、そうではない。

そこは子どもである「貴方の選択」。

そこに親の「ずるさ」もあるわけです。

心配はだれのもの?(他者の課題)


ま、こっちもアラフォーになって、今さら親もないんですけど、久々に向き合ってみて、改めて「親の理解」を得ることの難しさを感じたんです。

ただ今の自分は昔に比べて少しは成長しているのか、別に親の理解を得る「必要もない」んだなということにも気づきました。

「ま、いっか」の精神です。

もちろん親が自分のことを心配してくれているという、このこと自体はありがたいことだと思うし、自然なことでもありますよね。

ただ、あれっ?と思ったのは、その「心配を親が子どもに伝える行為」には、どんな意味があるのか、ということです。

結局、その心配は「親の感じている心配」なんですよね。

親の感じている心配や不安をぶつけられた時に、子どもがその不安を解消してあげる必要ってあるのでしょうか?

むしろ、それは原理的に不可能な話なんですよね。

これは『嫌われる勇気』を読んでから意識するようになったんですが、人の感情を直接的にコントロールすることはできないし、それは感情を持っている本人の課題なんです。

だから、親不孝な言い草ですが、さっきの心配は親自身が解決するべき課題なんです。

このように問いの立てなおすことで、だいぶすっきりしました。

子どもは子ども(子離れ)


そこで気づいたのがある「刷り込み」です。

なぜか無意識に「親に心配をかけてはいけない」と考えてしまっているんです。

この起源を遡ってみると、それは子どものころ。

勝手に知らない人について行ったりとか、そういう危険なことを抑止するために、つまり生き延びるためには、親を判断基準にするっていうのは必要だったんです。

実際に自分も子育てをしていて思うのは、やっぱり子どもの行動ってすごく心配っていうことなんですよね。

道を歩いているだけでも道路に飛び出しそうだったり、前をよく見えてないように見えるから、すごく心配になる。

でも、子どもは「ちゃんと見てるよ~」とぶーたれてます。

で、これは4歳の子どもだから成り立つんだけど、「20歳の子ども」とか「30歳の子ども」とかにしてみると、いよいよおかしなことになっちゃうんですよね。

確かに「いくつになっても子どもは子ども」で、その親心はわかるんだけど、いつの間にか子どもは子どもじゃなかったりするっていうことなんです。

これがすごく面白い感覚だなって気づいたんですよ。

子育ての嬉しさと寂しさ。

それで、子どもはもう子どもじゃなかったとしても、親は親のままなんですよね。

父親から見える僕のイメージは、やっぱりまだ子どもだし、危なっかしいままなんだろうなと気づいたんです。

これ、ぜひ覚えておいてもらいたいんですが、親の自分へのイメージって赤ちゃんのころのままで変わりません!

こっちは母の話なんですが、小1ぐらいの誕生日でリクエストした「アップルパイ」がいまだにバースデーケーキの定番です。

いまはレアチーズケーキが好きなんですけどね。

それぐらい自分のことを覚えてくれているし、それぐらい昔のままの自分を見ている。

考えてみれば当たり前のことで、家を出れば生活空間も変わるし、成長するにしたがって人間関係の中での親の比重はどんどん小さくなりました。

大人になって親との接点ってかなり少なくなりました。

つまりは、「親離れ」と「子離れ」。

世代の違い(周期的な循環)


もう一つのギャップに「世代の違い」があります。

こないだ読んだ本に面白いことが書いてあって、「だいたい歴史は40年ごとに栄枯盛衰を繰り返す」そうです。

本当かどうかはわからないけれども、確かに明治維新の40年後に日露戦争があり、日露戦争の40年後に太平洋戦争があり、太平洋戦争の40年後にバブルの崩壊がある。

こんなふうに40年周期で社会構造の大きな変化を繰り返しているという見方です。

経済の「コンドラチェフの波」にも似ていますね。

コンドラチェフの波(Kondratieff Cycles)は、技術革新による景気循環で、約50年周期で新しい画期的な技術が開発されて景気が盛り上がる反面、ある程度期間が過ぎれば飽和状態になり産業そのものが縮小する。

この40年の意味について三世代の周期という見方が書いてありました。

「売り家と唐様で書く三代目」という風によく言われますが、会社の経営者でも、初代がゼロから創業したものでも、三代目になるとオシャカにしてしまうということはよくあります。

企業でも社会でも、人間の自然な周期である20年~30年の代替わりごとに、少しずつ変わります。

40年も経つと価値観や潮流が変化していきます。

勘違いしやすいのは、これは「昔のやり方が古臭い」からダメというわけではなく、環境が変わっているために成り立たないということです。

どうしても生きていると経験を積んだ結果、「常識」が生まれます。

常識とはパターン認知の一種で、反射のような「考える必要がない判断」と言えます。

本来はパターンが成り立っているかどうかを考える必要がありますが、人間が生きている間に変化しにくい要素については「便宜上」常に成り立つと仮定するのが「常識」です。

しかし、一人の人間が暮らしている時間というのは歴史の流れからすると短すぎます。

だから人間は「一定不変の真理」のように感じてしまうことがあります。

例えば、戦後の終身雇用もそうだし、江戸時代の鎖国もそうだし、時代ごとにいろいろな前提が生まれます。

しかし、二十歳違うとその「感じている世界」が変わってしまうんです。

ですから、必然的に「ジェネレーションギャップ」が生まれます。

とりわけ社会は、技術の進歩とか環境の変化という漸進的な変化だけではなく、景気の循環とかのような大きな周期性の中に生きてるので、世代ごとの体感する世界は違うのです。

少なくともこれまでの歴史はそのようです、古代エジプトの時代から人類のすべての親子世代の間にジェネレーションギャップはあったと言えます。

だから、そのジェネレーションギャップ自体は人間社会の必然で、当たり前の現象です。

これは、「年を取って頭が固い」ということではないのです。

そこを理解しないと無駄にエネルギーを使ってしまうということなんですよね。

無理にジェネレーションギャップを埋める必要もありません。

まとめ

むしろお互いの余命も違うわけで、したがってお互いの体験する世界が違うのだから、世界観を合わせる必要はないのです。

それぞれの常識を尊重しながら生きていくことが大事だな、と少し反省しました。

親孝行しないとな…

あとがき



またしても、最新のお題が思いつかず…

ま、これも後追いのだいご味ですよね。

同じテーマで書かれたほかの作品もこちらからどうぞ…「#3000文字成長」。

きっとすてきな文章との出会いがあるはず。

誰でも大歓迎!
無理はしない


こんなんもあんねんで

本文で紹介した『嫌われる勇気』の読書感想文はこちらにあります。