疑問もなく何年も何十年も続いて、そういう時に独りで自分の存在を保つことなんて、だれができるんでしょう…
※未成年の方や「性」について嫌悪感のある方は、適切ではない表現が含まれていますので、読み進めないことをお勧めします。
映画「アマデウス」より「ヴィーナスの乳首」というチョコ菓子 |
正直、18禁コンテンツを批評するのは、それなりに勇気がいるのですが、なるべく心のままに書いてみたいと思います。
出会いのきっかけ
この作品の扱っている主題は、モラハラ、性依存症、不倫というものです。※モラルハラスメント:言動や態度といったモラルによる精神的な苦痛を相手に与える、DVの一種
わたしがこの作品を読もうと思ったきっかけは、友だちの受けていた「DV」に気づけなかったという苦い経験があるからです。
また、いまでも「モラハラ」に悩んでいる友人がいます。
DV(ドメスティックバイオレンス)は密室で起こります。
近い友人でもわからないこと、知りえないことがたくさんあります。
人には見せられない内奥を、受け止め・思いやるヒントが得られるかも…と思って読んでみました。
姦淫の女の救い
読み終わって心に残った主題は、「懺悔と祈りと赦し」です。西洋美術から断片的に知っているだけなのですが、聖書の「姦淫の女の救い」(ヨハネ8:1~11)のモチーフを想起しました。
ちょっと長いですが、聖書から引用したいと思います。
8:1 イエスはオリーブ山に行かれた。
8:2 そして、朝早く、イエスはもう一度宮にはいられた。民衆はみな、みもとに寄って来た。イエスはすわって、彼らに教え始められた。
8:3 すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕えられたひとりの女を連れて来て、真中に置いてから、
8:4 イエスに言った。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。
8:5 モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」
8:6 彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。
8:7 けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」
8:8 そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。
8:9 彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。
8:10 イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」
8:11 彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」
「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」という言葉が有名な話です。
人には人を真に裁くことって、不可能なんです。
ですので、私もここでモラハラ・不倫の是非を論じるつもりはありません。
モラハラという型にははめたくない
さて、まず、この作品を単に「モラハラ」や「性依存症」の小説と読むのはもったいないと思います。そういう概念的なものではなく、もっと具体で生々しい在り方。
ある人間の苦しみ、ある人間関係の危うさを描くのが小説だと思うからです。
そういう意味では、このレビューは「モラハラを気づくきっかけを作りたい」という作者の意志とちょっとずれてしまうかもしれません。
まぁ、概念や診断なんて、人生をとらえる一つの一つの断面に過ぎませんし、せっかくの小説作品なんですから、そのまま味わっていきましょう。
題名について(秘められた自我)
まず、『奥さんのいる貴方 私の股間を舐めてください』という題名の意味について考えてみます。この行為について、いくつか本文の描写を抜粋すると
(大丈夫だよね…)
- 恥部は尿を出す汚いところだ。そこを熱心に男になめられるのが、快感だった。(No.342)
- 性器を丹念に舌を這わしてもらっていると、体中に溜まった毒や悲しみが流れて行く様だった。(No.201)
- 誰がなんと言おうと、妻のいる男性に抱かれる事が梓にとって梓でいる為に必要なことだと思っている。(No.395)
- 男が自分にかしずく姿を見ていると、凄く心がみたされる。(No.490)
- 貴大に傷つけられた心を癒すのは、妻のいる男でなくてはならない。そして、梓を決して否定せず、優しくて、梓の秘所を丹念になめてくれる男。(No.581)
そうなんですよね。
恥部は「恥ずかしい自分」を象徴し、既婚男性は「優しい夫」の代償でなくてはならないんです。
これを読むと、主人公である梓の本心が「夫に愛されたい、存在を認められたい」ということなのかなと思ってしまうんですよね。
「股間を舐める」という行為は、まるで「涸れてしまった涙を拭う」ことのように感じました。
でも、泣いているだけの悲劇のヒロインでもありません。
愛があるからこそ、恐怖の対象である夫に対して、殺したいほどの深い憎しみがあるのです。
既婚男性と関係をもつのは、夫への復讐の感情と支配の欲望もありますよね(「幸せそうに見えるふつうの妻」への恨みもある)。
その愛も憎しみも、日常的に続く存在否定の言葉の暴力の中で心の奥深くに閉じ込められてしまっています。
文中にモラハラについてこう書かれています。
モラハラは心の殺人という人がいたが凄くよくわかる。貴大といると喜怒哀楽を思う様に出せない。心が死んだ様な気持ちになる。
いびつに変形してしまった自己破滅的な愛のカタチを、どのように昇華していったらよいのだろう。
「自信」という言葉への違和感
さて、内容紹介を読んで少しひっかかったのが、「自信」というキーワードです。夫からモラハラを受けて、その傷を癒す為、奥さんのいる男性と不倫。夫の代わりに優しくしてもらってます。そうすることで癒されてます。そうすることで自信を取り戻せてます。この気持ちをわかってください。(内容紹介より)
不倫と自信がつながらなかったので、どういう意味で言っているのかなと思い、考えてみます。
そこで、文中での「自信」という用語の使われ方をみてみましょう。
両親との関係
- 両親から心から愛されているという実感や自信がなかった。(L17)
- 子供の頃から本当に両親に愛されているのか自信がなく、いつもびくびくしていた。(L505)
モラハラとの関係
- 暴言によって自信を奪われていった。(L34)
- ただ寂しくて不安で自信がなくて、(L44)
- この家を出てもやっていく自信はあるが、一人で逃げて(L132)
- 梓に対しての夫の口癖は、「馬鹿、ブス、何をやっても駄目」だ。梓は自分に対して、自信というものを完全に失っていた。(L341)
- 「そんなこと?私、人としての自信も、女としての自信もなくして辛かった」(L917)
- 人の夫達によって自信を取り戻しつつある。(L35)
- 恥部をなめて貰っていると、自信が蘇ってくるのだ。(L342)
- 小陰唇を吸われていると、体中に自信がみなぎる。(L499)
- クンニは本当に最高に癒される行為で、梓に女の自信を取り戻させてくれる。(L740)
- 死にたいと思った時期もあったが、妻のいる男性に性器をなめて貰う様になってから、自信を取り戻しつつある。(L745)
その与えられた愛によって「自分はそれでよい」という安心を得る、このことを「自信」という語で表現しているように思います。
しかし、「自信」の本来の意味は、「自分で自分の能力や価値などを信じること」。
自分で自分のあるがままを愛することができない、この倒錯した心理状況が、梓の生来のコンプレックスなんだと思います。
見る・見られる関係
「モラハラ」をする人の特徴は、「外面がいい」ということです。他人から見えるところでは「いい人」なんですよね。
そこで、この小説での「視線」に注目してみたいです。
この小説には、梓、貴大、子ども(無垢)、3人の不倫相手、不倫相手の妻、世間の人という6つの存在が登場します。
これらの「見る」「見られる」という関係を全パターン、網羅して検討しようと思ったんですが、それはまたの機会にします。
貴大についてみてみます。
彼は、親・世間の目というものを気にして生きています。
「ダメな妻を支えるよい旦那さん」と世間から認められることで、自我を保って生きています。
彼もまた、他者からの愛・承認を受けるために、人を傷つける行為を繰り返さないと生きていけない、そう思い込んでいる存在なのです。
愛の反対は憎しみではない。無関心だ。
梓はどうでしょう。貴大からは存在を無視されていて、世間からは誤解されてみられている。
そして、梓は不倫相手にも、涙も感情も見せていません。
誰にも、「見られていない」んですよね。
不倫相手に対してのふるまいをみると、「理解のある・都合のいい女」を演じているように感じます。
「愛情ごっこ」(No.505)だとわかっているんです。
これは、「娼婦」の仮面だと思います。
しかし、男たちの視線も梓を通り過ぎ、カラダであったり、快楽であったり、癒しであったり、どこか別のところで焦点を結んでいます。
不倫をする男たちも、それぞれ家庭に居場所がなく「寂しさ」に苛まれていて、その目線はけっきょく自分自身に向かっているんです。
涙を拭うとき人は相手の目が見えるのですが、股間を舐めるときには相手の目は見えないんですよね。
そこがすごく切ないです。
エリ・ヴィーゼルに以下のような言葉があります。
愛の反対は憎しみではない。無関心だ。
美の反対は醜さではない。無関心だ。
信仰の反対は異端ではない。無関心だ。
生の反対は死ではない。生と死への無関心だ。
出典「US News & World Report (27 October 1986)」
願いと祈り
浮気がばれてからの貴大の心理は、まだ私にはわかりません。泣く→放心・憔悴→乱暴に抱く→理由を聞く→嗚咽→修復の告白
貴大にとって、梓が愛する存在だったからなのか、それとも自分の崩れた世界観を修復しようとする渇望に苦悶しているのかは、よく判断できません。
こういう反応をしてほしいという一縷の願いや祈りのようにも感じます。
ただ、貴大の方が感情表現がストレートに描かれています。
もしかすると、貴大にとっては、感情を表現しない梓が「わからない存在」で、不気味に感じてしまっていたのかもしれません。
無垢な子どもの存在感
最後に「子ども」の存在をみてみます。この作品の中では、子どもは3つの場面で登場します。
- 一つは、梓の2人の小学生の娘との食事。
- もう一つは、ホテルの近くの公園でみた子供たち。
- あと、赤子の時の泣き止まない我が子。
子どもは「無垢・汚れない存在」として描かれていて、生々しさが感じられません。
結婚生活・家庭生活の中で、子育ては大きな試練でもありますが、梓の子どもへの感情は「捨てて逃げられない」というもので、イラついたり、攻撃する怒りの描写が希薄に感じました。
なぜでしょう。
それは、子どもを守りたいからこそ、あえて描写していないのかもしれません。
本当の秘所とは、子どもたちなのかもしれません。
不倫が子どもを裏切ることを知りながら、自分が自分であるために汚れてしまう。
どうして、子どもからの愛情で満たされないんだろう、という母の悩みも深いのかもしれません。
ここが私の居場所という気づき
モラハラという関係に気づき、性依存症という自己に気づき、自分の感情に気づいて、進もうと決意した梓。結局、「ここが私の居場所」というのは、あるがままの自分を最後に見つけたということなのかもしれません。
以前に薬物依存症の方の話をお聞きしたのですが、「絶対しない」と言っている時の方が危険で、「今日一日しない」という自分の弱さを抱えながら生きること、してしまうかもしれない自分を周囲の人にオープンにしておくことが、依存症から立ち直っていくときに大切だそうです。
だからこそ、梓の最後の告白は前向きにとらえたいと思います。
おわりに
これは私の個人的な読み方なので、人によって読み方は違うでしょう。30分ほどで読める中編なので、もし興味があればぜひ読んでみてください。
あなたの感想も聞いてみたいです。
いま、人間関係に苦しんでいる人の光になりますように。
今後の研究としては、3人の不倫相手それぞれとの微妙な関係性の違いに目を向けても面白そうです
ちなみに、官能小説としては、なんとなく人肌が恋しくなるようなそんな作品です。
おだんごだからセーフだよね…