ポリフォニーを3音に編曲するのは無理がありましたが、それでもやはり美しい曲ですね。 モーツァルトの交響曲第38番は、1786年の冬に完成しました。 交響曲第38番はもともとはウィーンで1786年の冬のシーズンの演奏会のために作曲されました。 しかし、結局その冬ウィーンでの発表の機会はありませんでした。 30歳をむかえるモーツァルトにとって、ウィーンでの生活はかげりがみえてきます。 モーツァルトにとっては11月にはもうひとつの悲しみがありました。 それは、父と同じ名前を付けた息子レオポルトが生まれて間もなく亡くなってしまったのです。 この時期にモーツァルトが故郷ザルツブルグの父親に宛てた手紙には、死への思いを書いています。 「私は、(まだこんなに若いのですが)もしかしたら明日はもうこの世にいないのではないかと、考えずに床につくことは一度もありません。 それでいて、私を知っている人はだれ一人として、私が人との交際で、不機嫌だったり憂鬱だったりするなどと、言える人はないでしょう」 人前では明るくふるまっている彼の胸の内が、控えめに書かれています。 しかし、この年の暮れハプスブルグ家の旧都であるプラハにおいて転機が訪れます。 半年ぶりに再演された歌劇「フィガロの結婚」がプラハの聴衆から熱狂的な支持を受け、モーツァルトと妻コンスタンツェはプラハに招待されることになります。 1786年の春に作曲された歌劇「フィガロの結婚」は、ありきたりの作品ではなく、ウィーンの聴衆をあっといわせるようなオペラを作りたいと考えていたモーツァルトにとって、4年ぶりの本格的なオペラでした。 しかし、ボーマルシェの原作による「フィガロの結婚」は、貴族社会を風刺する問題作でもありました。 おりしもフランス革命前夜の不安定な時代でもあり、「フィガロ」は聴衆の評判が高まる前に、ウィーン宮廷内のさまざまな陰謀によって、5月の初演からわずか9回の上演で打ち切られてしまいます。 さて、交響曲第38番も、結局ウィーンでは陽の目をみず、1787年1月のプラハ訪問の際に初演されました。 プラハはチェコ西部のボヘミア地方の都であり、ゲルマン民族とスラブ民族の境界にある要衝です。 16世紀末から神聖ローマ帝国の都として高い文化水準を誇りましたが、18世紀半ばには中心はウィーンに移り、帝国の一地方都市になっていました。 チェコの音楽家にとってこの時代は「移住の時代」と呼ばれ、多くの音楽家が支援者を求めて国外で活動していました。 そんなプラハの人々はウィーンの枠にはまらないモーツァルトを熱く迎え入れます。 交響曲第38番は、歌劇「フィガロ」の歌と似た旋律が出てくるという点も印象的ですが、多声音楽の要素が浸透している点にも特徴があります。 モーツァルトは、1782年に宮廷図書館長を務めていたスヴィーテン男爵と出会い、彼の邸での演奏会を通してバロック時代の多声音楽を本格的に研究しました。 この1782年にモーツァルトはもう一つの人生の転機を迎えています。 モーツァルトは27歳で、19歳の妻コンスタンツェと結婚しました。 新妻のコンスタンツェは、フーガを「音楽の中でいちばん技巧的で、いちばん美しい」と言っていたそうで、結婚前に自分の為にフーガを書いてくれとねだったそうです。 コンスタンツェの家は音楽一家で、彼女も歌手だったのですが、姉アロイジアの方が才能豊かなソプラノ歌手だったようです。 かつてモーツァルトは姉のアロイジアの方に恋をし、ふられた後も彼女のためのアリアをいくつか作曲しています。 このような二人の関係に対する嫉妬心から、モーツァルトをアリアから離したかったのかもしれません。 結局、この時期のフーガはオリジナル作品としてはどれも未完成に終わっています。 それから4年後に生まれた交響曲第38番には、フーガの要素を楽章全体に浸透させて、これまで単声音楽が主流だった交響曲の形式と融合するという試みがあります。 モーツァルトとコンスタンツェの結婚には、もう一つの障害がありました。 それは、父レオポルトがコンスタンツェの実家に悪印象を持っており、反対していたということです。 その父親も結婚式の直前にはモーツァルトの願いを聞き入れ、息子の独立を認めて結婚に同意しています。 これまでレオポルトは、息子が良い地位について家計を助けてくれることを期待したり、逆に親として援助していたのですが、そこから決別することになります。 レオポルトは翌年の1787年に没するのですが、交響曲第38番の作曲時期にはすでにだいぶ体調を崩してたようです。 父親との二度目の別れを前に、この交響曲第38番には前世代からの独立が込められているのかもしれません。 モーツァルトは新しい音楽へ意欲的な試みを重ねていきますが、それゆえウィーンの人々は「モーツァルトの音楽は難しい」といって離れていくようになっていくことにもなります。 「プラハ」には階級・死・民族・恋愛・世代など価値観を巡るさまざまな葛藤が込められているのかもしれません。
こんにちは。モーツァルトの交響曲でも第38番はチャーミングな曲の一つだと思います。
ポリフォニーを3音に編曲するのは無理がありましたが、それでもやはり美しい曲ですね。 モーツァルトの交響曲第38番は、1786年の冬に完成しました。 交響曲第38番はもともとはウィーンで1786年の冬のシーズンの演奏会のために作曲されました。 しかし、結局その冬ウィーンでの発表の機会はありませんでした。 30歳をむかえるモーツァルトにとって、ウィーンでの生活はかげりがみえてきます。 モーツァルトにとっては11月にはもうひとつの悲しみがありました。 それは、父と同じ名前を付けた息子レオポルトが生まれて間もなく亡くなってしまったのです。 この時期にモーツァルトが故郷ザルツブルグの父親に宛てた手紙には、死への思いを書いています。 「私は、(まだこんなに若いのですが)もしかしたら明日はもうこの世にいないのではないかと、考えずに床につくことは一度もありません。 それでいて、私を知っている人はだれ一人として、私が人との交際で、不機嫌だったり憂鬱だったりするなどと、言える人はないでしょう」 人前では明るくふるまっている彼の胸の内が、控えめに書かれています。 しかし、この年の暮れハプスブルグ家の旧都であるプラハにおいて転機が訪れます。 半年ぶりに再演された歌劇「フィガロの結婚」がプラハの聴衆から熱狂的な支持を受け、モーツァルトと妻コンスタンツェはプラハに招待されることになります。 1786年の春に作曲された歌劇「フィガロの結婚」は、ありきたりの作品ではなく、ウィーンの聴衆をあっといわせるようなオペラを作りたいと考えていたモーツァルトにとって、4年ぶりの本格的なオペラでした。 しかし、ボーマルシェの原作による「フィガロの結婚」は、貴族社会を風刺する問題作でもありました。 おりしもフランス革命前夜の不安定な時代でもあり、「フィガロ」は聴衆の評判が高まる前に、ウィーン宮廷内のさまざまな陰謀によって、5月の初演からわずか9回の上演で打ち切られてしまいます。 さて、交響曲第38番も、結局ウィーンでは陽の目をみず、1787年1月のプラハ訪問の際に初演されました。 プラハはチェコ西部のボヘミア地方の都であり、ゲルマン民族とスラブ民族の境界にある要衝です。 16世紀末から神聖ローマ帝国の都として高い文化水準を誇りましたが、18世紀半ばには中心はウィーンに移り、帝国の一地方都市になっていました。 チェコの音楽家にとってこの時代は「移住の時代」と呼ばれ、多くの音楽家が支援者を求めて国外で活動していました。 そんなプラハの人々はウィーンの枠にはまらないモーツァルトを熱く迎え入れます。 交響曲第38番は、歌劇「フィガロ」の歌と似た旋律が出てくるという点も印象的ですが、多声音楽の要素が浸透している点にも特徴があります。 モーツァルトは、1782年に宮廷図書館長を務めていたスヴィーテン男爵と出会い、彼の邸での演奏会を通してバロック時代の多声音楽を本格的に研究しました。 この1782年にモーツァルトはもう一つの人生の転機を迎えています。 モーツァルトは27歳で、19歳の妻コンスタンツェと結婚しました。 新妻のコンスタンツェは、フーガを「音楽の中でいちばん技巧的で、いちばん美しい」と言っていたそうで、結婚前に自分の為にフーガを書いてくれとねだったそうです。 コンスタンツェの家は音楽一家で、彼女も歌手だったのですが、姉アロイジアの方が才能豊かなソプラノ歌手だったようです。 かつてモーツァルトは姉のアロイジアの方に恋をし、ふられた後も彼女のためのアリアをいくつか作曲しています。 このような二人の関係に対する嫉妬心から、モーツァルトをアリアから離したかったのかもしれません。 結局、この時期のフーガはオリジナル作品としてはどれも未完成に終わっています。 それから4年後に生まれた交響曲第38番には、フーガの要素を楽章全体に浸透させて、これまで単声音楽が主流だった交響曲の形式と融合するという試みがあります。 モーツァルトとコンスタンツェの結婚には、もう一つの障害がありました。 それは、父レオポルトがコンスタンツェの実家に悪印象を持っており、反対していたということです。 その父親も結婚式の直前にはモーツァルトの願いを聞き入れ、息子の独立を認めて結婚に同意しています。 これまでレオポルトは、息子が良い地位について家計を助けてくれることを期待したり、逆に親として援助していたのですが、そこから決別することになります。 レオポルトは翌年の1787年に没するのですが、交響曲第38番の作曲時期にはすでにだいぶ体調を崩してたようです。 父親との二度目の別れを前に、この交響曲第38番には前世代からの独立が込められているのかもしれません。 モーツァルトは新しい音楽へ意欲的な試みを重ねていきますが、それゆえウィーンの人々は「モーツァルトの音楽は難しい」といって離れていくようになっていくことにもなります。 「プラハ」には階級・死・民族・恋愛・世代など価値観を巡るさまざまな葛藤が込められているのかもしれません。
ポリフォニーを3音に編曲するのは無理がありましたが、それでもやはり美しい曲ですね。 モーツァルトの交響曲第38番は、1786年の冬に完成しました。 交響曲第38番はもともとはウィーンで1786年の冬のシーズンの演奏会のために作曲されました。 しかし、結局その冬ウィーンでの発表の機会はありませんでした。 30歳をむかえるモーツァルトにとって、ウィーンでの生活はかげりがみえてきます。 モーツァルトにとっては11月にはもうひとつの悲しみがありました。 それは、父と同じ名前を付けた息子レオポルトが生まれて間もなく亡くなってしまったのです。 この時期にモーツァルトが故郷ザルツブルグの父親に宛てた手紙には、死への思いを書いています。 「私は、(まだこんなに若いのですが)もしかしたら明日はもうこの世にいないのではないかと、考えずに床につくことは一度もありません。 それでいて、私を知っている人はだれ一人として、私が人との交際で、不機嫌だったり憂鬱だったりするなどと、言える人はないでしょう」 人前では明るくふるまっている彼の胸の内が、控えめに書かれています。 しかし、この年の暮れハプスブルグ家の旧都であるプラハにおいて転機が訪れます。 半年ぶりに再演された歌劇「フィガロの結婚」がプラハの聴衆から熱狂的な支持を受け、モーツァルトと妻コンスタンツェはプラハに招待されることになります。 1786年の春に作曲された歌劇「フィガロの結婚」は、ありきたりの作品ではなく、ウィーンの聴衆をあっといわせるようなオペラを作りたいと考えていたモーツァルトにとって、4年ぶりの本格的なオペラでした。 しかし、ボーマルシェの原作による「フィガロの結婚」は、貴族社会を風刺する問題作でもありました。 おりしもフランス革命前夜の不安定な時代でもあり、「フィガロ」は聴衆の評判が高まる前に、ウィーン宮廷内のさまざまな陰謀によって、5月の初演からわずか9回の上演で打ち切られてしまいます。 さて、交響曲第38番も、結局ウィーンでは陽の目をみず、1787年1月のプラハ訪問の際に初演されました。 プラハはチェコ西部のボヘミア地方の都であり、ゲルマン民族とスラブ民族の境界にある要衝です。 16世紀末から神聖ローマ帝国の都として高い文化水準を誇りましたが、18世紀半ばには中心はウィーンに移り、帝国の一地方都市になっていました。 チェコの音楽家にとってこの時代は「移住の時代」と呼ばれ、多くの音楽家が支援者を求めて国外で活動していました。 そんなプラハの人々はウィーンの枠にはまらないモーツァルトを熱く迎え入れます。 交響曲第38番は、歌劇「フィガロ」の歌と似た旋律が出てくるという点も印象的ですが、多声音楽の要素が浸透している点にも特徴があります。 モーツァルトは、1782年に宮廷図書館長を務めていたスヴィーテン男爵と出会い、彼の邸での演奏会を通してバロック時代の多声音楽を本格的に研究しました。 この1782年にモーツァルトはもう一つの人生の転機を迎えています。 モーツァルトは27歳で、19歳の妻コンスタンツェと結婚しました。 新妻のコンスタンツェは、フーガを「音楽の中でいちばん技巧的で、いちばん美しい」と言っていたそうで、結婚前に自分の為にフーガを書いてくれとねだったそうです。 コンスタンツェの家は音楽一家で、彼女も歌手だったのですが、姉アロイジアの方が才能豊かなソプラノ歌手だったようです。 かつてモーツァルトは姉のアロイジアの方に恋をし、ふられた後も彼女のためのアリアをいくつか作曲しています。 このような二人の関係に対する嫉妬心から、モーツァルトをアリアから離したかったのかもしれません。 結局、この時期のフーガはオリジナル作品としてはどれも未完成に終わっています。 それから4年後に生まれた交響曲第38番には、フーガの要素を楽章全体に浸透させて、これまで単声音楽が主流だった交響曲の形式と融合するという試みがあります。 モーツァルトとコンスタンツェの結婚には、もう一つの障害がありました。 それは、父レオポルトがコンスタンツェの実家に悪印象を持っており、反対していたということです。 その父親も結婚式の直前にはモーツァルトの願いを聞き入れ、息子の独立を認めて結婚に同意しています。 これまでレオポルトは、息子が良い地位について家計を助けてくれることを期待したり、逆に親として援助していたのですが、そこから決別することになります。 レオポルトは翌年の1787年に没するのですが、交響曲第38番の作曲時期にはすでにだいぶ体調を崩してたようです。 父親との二度目の別れを前に、この交響曲第38番には前世代からの独立が込められているのかもしれません。 モーツァルトは新しい音楽へ意欲的な試みを重ねていきますが、それゆえウィーンの人々は「モーツァルトの音楽は難しい」といって離れていくようになっていくことにもなります。 「プラハ」には階級・死・民族・恋愛・世代など価値観を巡るさまざまな葛藤が込められているのかもしれません。