どうして、それを「ありがたや」と言えるんだろう

柳宗悦の著書「南無阿弥陀仏」には、「妙好人」という興味深い存在が紹介されている。何をされても「ありがたや」と感謝する妙好人の姿勢は、その人柄の素晴らしさから周囲の人々までもが良い影響を受けるという。

この妙好人に似た存在として、良寛という僧侶がいる。船頭に命を狙われながらも「命の恩人」と感謝した良寛は、自らの命さえ完全に諦めきった境地にあった。期待すら捨て去った彼にとって、船頭の中に救う意志が生まれたことが奇跡だったのだ。

また、殺されかけた際も「仕方ない」と諦めていた良寛は、諦念の境地に到達していた。そのため、他者への期待を持たず、良意が生まれた時に感謝の念が自然と湧いたのだろう。妙好人もこの諦念の境地にあり、人々の良意を奇跡と捉えていたのかもしれない。

一方で、良寛は僧侶には厳しい批判を加えており、僧侶に対してだけは期待を捨て切れていなかった面も見られる。このように、諦念の境地にありながら、同じ僧侶集団には一定の期待を抱いていた良寛の姿勢が描かれている。 

参考:Xユーザーのshinshinoharaさん: 「民芸品の美を「発見」した柳宗悦は、「南無阿弥陀仏」という本を書いている。その中で「妙好人」という興味深い話が。何をされても「ありがたや」、意地悪されても「ありがたや」。その人のよさは飛び抜けてして、いつしか周囲も毒が抜かれていく。まるでトルストイの「イワンのばか」。」 / X

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