近年、いろいろな社会で似たような光景を見かけるようになった。
権力者が強い批判を受けている。
それでも権力の座にとどまり続ける。
有権者は大きく割れていて、一方は危険だと批判し、もう一方は熱狂的に支持する。
批判されればされるほど、支持者は「攻撃されている指導者を守らなければ」と感じる。反対する側は、「法や制度が壊されている」と感じる。こうして政治は、政策の違いを話し合う場ではなく、「どちらが社会を守っているのか」をめぐる闘争になっていく。
この構造を考えるとき、中心にあるのは「権力均衡の失敗」なのだと思う。
民主的な権力の負託
民主政治では、権力者は選挙によって正統性を得る。これは大事なことだ。しかし、選挙で選ばれたからといって、その権力が無制限になるわけではない。むしろ、選挙で権力を得た人だからこそ、法や手続によって縛られなければならない。
この当たり前のことが、危機の時代には忘れられやすい。
権力者が「自分こそ民意の代表だ」と言い、批判や監視を「敵対行為」と見なすようになる。すると、議会、司法、報道、行政手続、抗議活動といった抑制装置が、だんだん邪魔者のように扱われる。法治主義は残っているように見えても、実際には中身が弱くなっていく。
革命と専制の歴史
歴史を見ても、こういう状況は何度も出てくる。
たとえば、革命や大きな混乱のあとには、強い執政者が求められやすい。議会は決められない。穏健な政治は遅い。社会は不安定で、暮らしも苦しい。そうなると、人々は「議論より決断」を求める。
そこに、秩序、統一、再建、誇りを語る指導者が現れる。最初は、多くの人にとって救済のように見える。けれども、権力を抑える仕組みが弱まると、批判は敵視され、制度は指導者の意思に従属しやすくなる。
古代の共和政の末期にも、近代の大衆民主政治にも、似たような構造はある。制度が疲れ、格差や対立が深まり、既存の政治が信頼を失うと、人々は法の安定よりも、強い人物の即効性に引き寄せられる。
不安は自由より秩序を志向する
ここで大事なのは、こうした政治が単に権力者の野心だけで生まれるわけではない、ということだ。背景には、不安がある。
人々が自由を重視できるのは、ある程度安心があるときだと思う。明日も生活できる。社会は壊れない。自分の意見を言っても破滅しない。そう思えるとき、人は自由や多様性を受け入れやすい。
逆に、生活、治安、雇用、国際情勢、共同体が不安定になると、自由はぜいたくに見えやすい。多様な意見は混乱に見える。慎重な手続は無力に見える。反対者の権利は、秩序の邪魔に見える。
そのとき、人々は自由より秩序を求める。
秩序を求めること自体は自然なことだ。問題は、その秩序が「法に基づく秩序」ではなく、「強い人物に従う秩序」として求められることにある。
法に基づく秩序は、権力者も縛る。
強い人物に従う秩序は、権力者を例外にする。
この違いは大きい。
前者は、反対者にも権利を認める。後者は、反対者を排除しようとする。前者は、時間はかかるが安定をつくる。後者は、一時的な一体感を生むが、あとに深い分断を残しやすい。
分断とは、意見が違うことではない。意見が違うのは、民主政治では当たり前だ。問題は、相手を同じ社会をつくる相手ではなく、排除すべき敵と見ることだ。
そうなると、法や制度は共通の土台ではなく、自分たちが勝つための道具になる。自分たちに有利な判定は正しい。不利な判定は不当だ。自分たちの権力行使は必要な決断で、相手の批判は妨害だ。こういう空気のなかで、法治主義は傷ついていく。
破局を避けた過去の知恵
では、どうすれば破局を避けられるのか。
まず、選挙の正統性と法治主義を分けて考える必要がある。選挙は権力の入口だ。しかし、権力の限界を決めるのは法である。多数に支持されていても、越えてはいけない線はある。ここを曖昧にしてはいけない。
次に、権力を監視する機関を、権力者本人から切り離すことが大事になる。権力者やその周辺が疑われる問題を、同じ権力機構の内部で判断すれば、どうしても利益相反が起きる。利益相反とは、自分の利害が判断をゆがめる状態のことだ。
権力者の善意に期待するのではなく、善意がなくても止まる仕組みにしなければならない。
ただ、制度だけで十分かというと、そうでもない。
市民の側にも、フェアネスが必要だと思う。フェアネスとは、自分に不利な事実でも認めることだ。自分が支持する権力者にも法を適用することだ。相手陣営の権利も守ることだ。
民主政治は、自分たちが勝ったときに相手を黙らせる制度ではない。自分たちが負けたときにも、なお発言権と手続的な保護が残る制度である。だからこそ、勝っているときにこそ、手続を大事にしなければならない。
権力不均衡は、いきなり生まれるわけではない。
今回だけは仕方がない。
危機だから仕方がない。
選ばれたのだから仕方がない。
支持されているのだから仕方がない。
こういう小さな例外が積み重なっていく。そして、いつの間にか例外が通常になる。
機能不全を放置した「つけ」
歴史は、穏健な民主政治の機能不全が、強い指導者への期待を生み、その失敗が、再び法治主義への回帰を促す、という流れを何度も見せてきた。しかし、それは宿命ではないと思う。破局を経験しなければ戻れないわけではない。
破局を避ける道は、強い人物にすべてを託すことではない。強い人物が現れても壊れない制度をつくることだ。
秩序は必要である。人々が不安なとき、秩序を求めるのは自然だ。けれども、その秩序は服従によってではなく、信頼できるルールによって支えられるべきだ。
自由と秩序は、本来、単純に対立するものではない。法治主義が機能している社会では、法が権力者を縛るからこそ、市民は安心して自由でいられる。
権力均衡とは、権力者をただ弱くすることではない。権力を正当に、持続可能に、信頼できるものにするための条件である。
いま問われているのは、誰を支持するかだけではない。自分が支持する権力者にも、法の限界を認められるかどうかだと思う。
そこに、民主政治が法治主義として踏みとどまれるかどうかの分かれ道がある。